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 年末のクリスマスライブの感想も書くつもりだったのに、やべえ、小並感しか出てこない、とか思っているうちに、3回目のライブに向かっていました。数時間のちには早くも4回目だよ!というわけで、行って参りました『あなたと直樹と私だけ』及び『Jackpotを引いてしまいました。』。

 前回と同じライブハウスだったので、楽に行けるのかというと、まさかそんなわけはなく。大体地元駅の時点で、ホームのどのへんから電車に乗るかを気分で決めるからダメなんですよね。ここから乗る!すると大阪駅のここに着く!ここの階段を上るとここに出る!って決めておけばいいのか…、という大発見。同じ場所から外に出ているわけではないので、ライブハウスへの道のりもまちまちです。Googleマップを開いてざっくりこっちの方向、と思って歩けば、大きい道に突き当たって曲がればいいとだけ覚えました(多分左だが場合によっては右もありうるので油断禁物)。

 昼公演はアコースティック、だそうなのですが、え、ピアノも?と思っていたら、普通に電子ピアノが舞台に置かれており、アコースティック…?と引っかからずにはいられないんですけれども。あとから確認したところ、ウィキペディアによると『音響』の意だそうで、楽器本来の響きを生かした音を指すらしい。となると電子ピアノでもアコースティックは成り立つわけですね。アンプラグドと同義かと思っていました。
 シンプルな構成の音は大好物なので、特に楽しみにしていました。ミニライブなのがもったいない。さらっとした声に癖のない歌い方なので、シンプルな音で映えますよね。なるほど、アコースティックか。耳が比較的楽、というのもありますが、こういうのもぜひまたやって欲しいです。

 あんまり余計なことをごちゃごちゃ考えるのはやめよう、と思うのですけど、聴いてるうちについ考え始めてしまうのが、ちょうど復活ライブの直前に読んだ小説にあった、『ライブに音楽的価値はあるか』ということです。『蓮見律子の推理交響曲 比翼のバルカローレ』(杉井光)で、作曲家であるヒロインは言います。『生演奏の音楽的価値は、音の圧力と多方向からの重なりにしかない。だがこの2点は高性能な機材によって録音でも再現できる。ライブ会場でリアルタイムで聴くことの音楽的価値などない』。まあ確かに、高性能機材は自宅にないにしても、ライブ会場の条件よりも、普通のウォークマンを自分用に調整して、安価なイヤホンで聴いた方が純粋に音としては快適なはずだと思うんですよね。では何故自分は生歌唱に形容しがたい魅力を感じるのだろう、とついつい考え始めてしまうのです。
 その場の空気、距離の近さ、MC、それらを除外して、なお残る魅力とは。今回、特に『Missing』を聴いて感じたのは、CD音源からの変化でした。録音から月日が経ち、声も歌い方も違ってくる。極めていい意味でです。年齢を重ねて取れた角や増した艶っぽさとか、録音でも再現できるかもしれないけど、さしあたり録音が存在しないわけじゃないですか。再現できるものよりも、より良いものが聴けるかもしれない。じゃあ聴きに行くしかないでしょう。

 そういえば、ライブとかイベントに『参戦する』って表現がよく使われますよね。私にはその言葉選びに違和感があります。そんなに深い意味を持って使われているわけでもなさそうですが、何と戦うわけでもありませんし。あの場にいる感覚を例えるなら、手のひらの上で転がされているようなものでしょうか。お釈迦様かよ。いや、名前的には神様の方が近いかも。そうか、あそこは神の国だったのか(やばい集会みたいになってしまった)。


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