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 京都編というと、原作では7巻から18巻半ば、アニメだと28話から62話にあたります。ざっくり計算すると、アニメは京都編に12時間弱くらいを要したことになりますかね。実写は前後を合計して約4時間半。3分の1くらいしかありません。大変だ、あちこち端折らねば!

 …という結果、端折った上にごっちゃにして、でも何故かオリジナル要素を盛り込んだがために、大事なことを雰囲気で流され続けてきたような気がするけど、気にしない!と思おうとしたけど気になるわ!
 とりあえず私なら蒼紫はばっさりカットしちゃう。1作目に登場しなかった以上、そこはもう諦めるべき。あの4人が死んでいない以上、暴走する動機も存在しないんだから。あと十本刀も各々の見せ場が作れないなら中途半端に出すよりカット。側近は必要だろうから宗次郎と方治と、まあ張は役割があるからいてもいいかな。ああ…、あと安慈も必要かもしれません。ストーリー的には必要なかろうけど、左之助の見せ場なので。ちょこちょこあっち行ったりこっち行ったりしてる話の中において、あのバカで真っ直ぐでわかりやすいところが異常に魅力的に見え、私の中で左之助の株が暴騰しています。

 さて、どう考えても師匠感しかなかった福山雅治はやっぱり師匠なのでした。どんな偶然だよ。あの様子だと、先に剣心だとわかっていてから顔をしっかり確認したように見えましたが、15年間会っていないバカ弟子によく気付いたものです。老けちゃいないだろうけど成長はしてるし、赤毛も光の具合では薫の方が茶色く見えるくらいで、あまり特徴になっていないので…、何なんでしょうね。失神してても感じる気でもあるんですかね。わあ、さっすが師匠ー(棒読み)。
 前半がカットされた師匠と剣心の出会い。命がけで守られて、でも自分は何もできなくて、というのは必要だったと思います。そして唯一できたことが、すべてが終わったあとに死体を弔うことだけだった、っていうエピソードでしょ?どうして何でもかんでも前提がすっ飛ばされてしまうのでしょう…。清里を殺すシーンが原体験のように何度も繰り返されるけど、それよりも先にあるのが幼少期のこの体験だったわけで。いきなり中途半端に墓掘りから始められても。
 剣心をいじって遊ぶというシーンが一切なかったせいか、何となく師匠は単純に剣術の師匠でしかない印象でした。ドライな関係で、親代わりという感覚はない。…ほんで、一体いつ奥義を会得したのか、ちょっと、いや、全然わからんかったんですけど……。せめて示唆くらいして。ていうかそこを切る発想がわかりません。朝チュンか。朝チュン的手法なのか。もしや奥義会得はえろいのですか?

 そんなわけで、1作目から私が『どうなのそれ』扱いしている清里を殺すシーン、そしてその遺体に巴が泣いてすがるシーンは、今回もまた繰り返されるのでした。抜刀斎が暗殺した人の名前を並べ始めた時点で、またこのパターンかと思ったのです。でもちょっとだけ、清里の名前に外見上は微弱な反応を人知れず示すだけ、という演出も期待したのです。いいじゃないですかそんくらいで。大仰に繰り返されると、逆に嘘っぽく見えてくるんですもん。
 しかし巴はどういう位置付けをされているのか、明らかにされないままですね。単純に、何度も立ち上がって向かってきた清里、取り乱す巴の姿が剣心の脳裏に焼き付いているだけなのか、その後巴との接触があったからこそ、何かにつけ思い出す光景なのか。傷の件は置いとくとして、巴の配役から察するに前者っぽいと踏んでいますが。

 一応期待を残しておいた宗次郎は、極めて単純に戦闘要員と扱われただけで、キャラクターの掘り下げをほぼ一切放棄されてしまいました…!宗次郎の意味ないし!神木隆之介の無駄遣いだし!いいのか。それでいいのか。これじゃただちょっとクローズアップされただけで、ほかの誰かに簡単に置き換えられるだけの存在じゃないか。神木隆之介にコスプレさせたら、ただそれだけで宗次郎が完成するわけじゃないですから。

 あの包帯ぐるぐる巻き姿なら、中の人が誰かなんてさほど関係ないようにも思えた志々雄。しかし、あの状態においてすら窺い知れる輪郭の丸さがどうしても気になります。どうせ特殊メイクなんだから、もうちょっとシャープさを出して精悍にして欲しかったな…。
 戦闘中にちらちら見える赤い裾が大変気になって仕方なかったのですが、アレ何でしょう。襦袢じゃないから…、となると赤フンですよね。違う?でももう赤フンにしか見えなくて、動くたび見える鮮やかな赤がどういうわけだかだんだん可愛く思えてきて、最終的に戦隊ものさながらに主人公派閥に寄ってたかって攻撃されるし、よろよろ由美を抱えて高いとこ上がろうとするし、『要は稼働時間を超えたから』っていう弱々しい理由で負けるし、実はただの弱者に見えてくるのです。あれ、志々雄ってこういうのんだっけ?あんだけ政府を右往左往させておきながら、ちょっとたちの悪い駄々っ子くらいのことに思えてきました。そりゃプロモーションで遊ばれるわ。

 てっきり伝統のアニメ初代OPのラストシーンをなぞった光景で締めるのではないかと思っていましたが、そうではありませんでした。
 1作目で思ったことは、人間関係が希薄であるということ。例えば連載漫画や長く放送されるアニメなら、とりたてて印象的に描かなくても特にイベントが起こらなくても、観る方も時間の経過を一緒に過ごすことで、作中の人間関係が深まっていくような錯覚を覚えることもできます。でも、たった数時間の劇場版ではそれは難しい。特に当人たちが離れていて、大部分がアクションシーンだったらとても難しい。それを埋めるものが私には感じられなかったのですが、そこからいきなりプロポーズかよ!いかん、これでもし巴とあのあと結婚してたらこの展開はマズイ。…と真っ先に現実的なことを考えてしまうくらいには、剣心の気持ちにも薫の気持ちにも私は寄り添えない。1作目で感じた人間関係の希薄さを取り戻すチャンスはいくらでもあったのに、どういうわけかそれをいちいち放り投げて、「このくだりいる?」みたいなことに何度も時間を割いたのが、3作通して納得できない点ですね。まあ、前回の屋根走りはよかったけどなぁ。
 あ、そういえば縁のやることは全然取られたりとかしませんでしたね。代わりに師匠が(というわけでもないけど)剣心泣かせてましたけども!

 今作一番よかったのは、敬礼する伊藤(たち)にドン引きする剣心一行でしょうか。最も感情移入できました。悪いのは政府、悪いのは政治家っていう表現なのかな…。要はそれぞれが違う形で反体制派だったっていう話ですし。空しさのあるオチではありますが、嫌いじゃないです。ただし『それで綺麗にまとめたつもりかよ』という思いは、政府に対するものであると同時に、作品そのものに対するものでもあるという感は否めないんですよねぇ。難癖付けて楽しんでるので、充分楽しめたことは確かですが。


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